ディオゲネスの宴

漫画の紹介と、感想を書いていきます。 『BLAME!』全話紹介&解説を書き終え、現在は浦安鉄筋家族について書いてます。桜井のりおは神。

青の祓魔師

この漫画にはもうほんと、あんまり言うことはなくて、冷徹に計算された構成・ストーリー・キャラクターの上に作者の趣味(大勢の人が共感可能な)が充分に発揮された、和製ダークファンタジーの現在の最高到達点とも言いうる作品だ。 

青の祓魔師 1 (ジャンプコミックス)

青の祓魔師 1 (ジャンプコミックス)

 
青の祓魔師 12 (ジャンプコミックス)

青の祓魔師 12 (ジャンプコミックス)

 
 
ええと、キャラクターは記号だ(ベジータ以外)

キャラクターというのは記号の一種だ。だから漫画の読書体験においては、キャラクターへの思い入れや、キャラクターの心情を想像したりというのはそこまで有意義な営為でない場合が多い。記号ととらえずキャラを個人として擬人化し思いはせることが有意義なキャラクターは、個人的には多分ほとんどベジータだけだと思う。

 

ただ今日は、『青の祓魔師』のヒロイン杜山しえみについて、思いをはせてみたい。

 

杜山は作者に愛されている。彼女の登場一コマ目がそれをよく現している。登場シーン。杜山はちょうど土いじりをしているところで前掛けやはだしの足の裏が土で汚れた姿で登場する。ヒロインの登場はすべからく華々しくあるべきだが、作者加藤和恵はそこに一生懸命に庭いじりをしたせいで土で汚れたヒロインを持ってくる。これは一種読者の裏をかいたヒロインらしい健気さ・華々しさ・美しさといえ、杜山のこれからの作品における位置を表現するのに十二分に成功している。こんな練りに練った贅沢な舞台への登場場面をヒロイン杜山に用意しているのだ。

 

恨まれるヒロイン

ところでヒロインが武器を持ち主人公とともに戦うモチーフがある。これは敵に攫われたりして主人公から隠されるヒロイン本来のあり方(初期ピーチ姫的な)とはやや逆行するものだ。女の子が戦うというモチーフは『リボンの騎士』なり『キューティーハニー』あたりに淵源があろうが、この戦う少女のモチーフがいつしか少年漫画のヒロインにも課せられるようになった。現代のヒロインは戦ったり攫われたり目下繁忙期を迎えている。

 

そうなってくると、つまり、主人公の救出を敵城の高い塔からただ待つのでなく、主人公やその仲間と手を取り合い敵と戦い、時に主人公を近くで奮い立たせるようになるとだ、ええと、そうなると、そう、恨まれる恨まれる立場になる。可愛い子がせわしなくいろんな役をやると(あるいはできてしまうと)、恨まれる。飲み会の時とかもそうだし、多分日常でもそうだ。これは当然なことで、ここは問題点ではない。

 

重要な点は、杜山が常にそうした怨嗟の声から超然として独歩するところにある。我関せず常にヒロインぽさの剛速球を大上段から投げおろす。超然たりえるのは、偏に作者に愛されるが故だ。そしてそれが杜山のアイデンティティであり、ヒロインである以上それを止めることはできないからだ。こうした超然独歩の姿勢。ここには孤独がある。孤独のみがある。誰も杜山の言動を顧みない。

 

彼女のことを思う時、私はThe Beatlesの『The Fool On The Hill』という曲を思い出す。彼女は様々にいちゃもんをつけられバカにされ揶揄される。しかし彼女は作者に後見され、孤独にもそうした誹謗の視点からは次元を異にして世界を透徹する。そこにグッとくる。この構造に本当にキャラとしてグッとくる。


The Beatles - The Fool On The Hill - YouTube 

 

そうした孤独なる美しさがある。杜山のみならず昨今のヒロインは往々にしてこの問題を抱えるのだろう。仏教の言葉ではないが「犀の角のごときただ独り」の歩みは、現代ヒロインに課せられた美しき宿痾なのだ。(すいません最後のこのあたり調子こきました)