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ディオゲネスの宴

漫画の紹介と、感想を書いていきます。

シュトヘル

あらすじはwikipediaによればこんな感じ。

 

13世紀初頭、蒙古モンゴル)軍による西夏国(タングート)侵攻が続く時代に、「悪霊(シュトヘル)」と恐れられた女戦士がいた。

時代は変わって現代。高校生・須藤は、燃え盛る建物と死が満ちる戦場を夢に見続けていた。ある日、顔を出したカラオケで出会った転校生・スズキとの邂逅によって、須藤は800年近く前に処刑されたシュトヘルとして蘇生する。

 

こうしたストーリーにかかわって、「西夏文字」を守る、というテーマが存在するのが本作の特徴だ。

 

シュトヘル1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

シュトヘル1 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 

 

 

シュトヘル 8 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

シュトヘル 8 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL)

 

 

このように本作は、「戦争」や「国家」や「文字」という大きなテーマが存在する。だが、そこで主に描かれるのは個人の情念なのだ。「戦争」「国家」「文字」なんていう格好の素材をガジェットに「個人の思い」が思いっきり描かれる。

 

だから広大な中国大陸舞台にし、さらに現代とのタイムリープも扱う本作であるのに、どこか世界がローカルなのだ。

 

作者の伊藤悠は、かつて佐藤大輔の原作をもとに『皇国の守護者』を漫画化した経験を持つ。これが私にとっては一層の混乱を招いている。佐藤の戦記物は、まあそれなりに国家だとか社会だとかの枠組みを提示してくれたし、そうした大きな枠組みの中で主人公が時に翻弄され時になんとか解決を図る、という構造を持っていたはずだ。

 

しかし『シュトヘル』では、そうした大きな枠組みがキャラクターを使役するのではなく、逆にキャラクター個人が大きな枠組みを使役する構成になっている。

 

ま、別にどっちがいいとかそういうことを言いたいのではない。肝心なことは、今をときめく漫画が、「国家」や「社会」の構造を描けない(あるいは、描く必要がない)のではないかということだ。そしてそれは同時に私たち読者が、そうした構造を読めない(読む必要がない)のではないかということだ。

 

少なくとも、現代の漫画は(以前と比較して)キャラキャラし過ぎている。「国家」や「戦争」や「文字」といった大きな構造をガジェットに持つにも関わらず個人プレーでキャラキャラしている本作を見ると、そんなことをことさらに思うのだ。もちろん、何度も言うけどそれが悪いと言いたいのではない。ただ前代の漫画は、もう少し社会構造に言及があったのではないか。

 

これは多分、戦後のある時期までは「国家」や「社会」を説明しうる思想が確かに存在したからなのだろう。なんでもったいぶったかわからんが、唯物史観のことだ。「戦争」や「国家」が描かれるとき、否応なしに「階級闘争」や「革命」に引きつけられてしまった世代があった。「社会」や「世代」が語られる時代があった。現代ではこうした軛から外れて、それはそれでいいのだが、一方で大きな構造を語り得ないのだ。良くも悪くも。だからキャラキャラする。これが現代なのだ。

 

差違だ。差異に敏感になれないと漫画は読めないのだ。