ディオゲネスの宴

漫画の紹介と、感想を書いていきます。 『BLAME!』全話紹介&解説を書き終え、現在は浦安鉄筋家族について書いてます。桜井のりおは神。

こうの史代を考える

なんか『はだしのゲン』が大変ですね。だからこそこうの史代だ。

中沢啓治はだしのゲン』の配架問題で揺れる昨今だ。中沢亡きあと、原爆を題材にした漫画を手掛ける作家といえば、こうの史代を挙げることができるだろう。

 

はだしのゲン』が作品としてどのような意味を持つか、今改めて問われている。その後継とも言えるこうの史代の作品を考えることで、『はだしのゲン』のもつスタンスも相対的にわかるのではないだろうか。いくぜ!

 

こうの史代は現代から原爆をとらえる 

こうの史代の作品は、原爆を題材に扱っているとはいえ、その振る舞いは極めて現代的だ。ま、今現在作品を出し続けているのだから当たり前だが。

 

少し細かく見て行こう。『この世界の片隅に』というこうのの漫画。広島から、軍港として知られる呉に嫁いだ女性が主人公だ。旦那さんとの心の機微が描かれたり、ちょっぴり意地悪な義姉さんがいたり、戦時の生活がかなり丁寧に描かれたり、最終巻では戦争による死や、呉の空襲、原子爆弾の投下を呉で目撃する場面が描かれる。お話しの作りも、時代の描写も非常に丁寧な漫画だ。NHKの朝の連続テレビ小説を見ている感じだ。

 

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

 

だがしかし。こうのは原爆にたいして極めて今風の描き方をする。主人公のすずさんは、戦争で体も心も傷つき、広島の実家に帰ろうか思案する。でも悩んだ結果、普段意地悪な義姉さん(この人は普段つんつんしているけど、普通にいい人ではある)に「やっぱり嫁ぎ先で暮らす」という決意を告げる。まぁ良いシーンなんだが、この直後に、原子爆弾が投下され、実家の家族が全滅に近い状態になる。(ねこ 様より、灰色アンダーラインで示した箇所、決断→原爆投下ではなく、原爆投下の後に決断であり順序が逆であるのではないか、とのご指摘をいただきました。原本読んで確認します。ひとまず保留とさせてください。ねこ 様、ご指摘ありがとうございました。)

 

ここでは明らかに、主人公のすずさんの選択と原子爆弾の投下が関連付けられている。すずさんはもう元の家族には帰ることができない。主人公の決断が、世界を一変させる要素と関連付けられる。これは便利な言葉を使えば「セカイ系」のパターンではないだろうか。この点、主人公や、その他広島の人々すべてが圧倒的な兵器の前にさらされる『はだしのゲン』とは趣を異にしている。

 

このように、誤解を恐れずにいうなら、こうのの作品は原爆をより一つのガジェットとして描く側面があるということだ。ここではっきり言うが、これが悪いわけではない。現代の問題関心のあり方として非常に理にかなっている。

 

百合とこうの史代 

そしてこうの史代は、多分だが百合好きだ。『桜の国』ではひょんなことから女の子二人でラブホテルに入る描写がある。ここでの二人の会話(一人の女性がもう一人がお風呂に入るところを見ていてスタイルを褒める)の持つ雰囲気は、こうのの百合好きとしての高い実力が垣間見える箇所だ。その他、前出の『この世界の片隅に』でも、すずさんが義姉さんに抱きついて泣いて、普段つんつんしている義姉さんがおろおろしたりする場面はグッとくる場面ではなかろうか。構成としては、天然系のふわっとした(かんじで描かれる)女の子と、きつめの性格(として描かれる)女の子との関係が好みのように思われる。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

ま、ともあれだ。主人公の選択と原爆の投下が時間的に近似して描かれたり、百合っぽい展開になったりと、「現代的」なのだ。ここ20年で形成あるいは実体化た概念が豊富に含まれる。今の漫画を読んでいる人たちにとっては、これがわかりやすい。読んで心に響きやすい。私たちはこういう時代を生きているのだ。

 

時代の持つ雰囲気、人々の感覚は思った以上に変化している 

はだしのゲン』はそうした点、どうしてもちょっと古い。古いせいで、ギャップが生まれて、ネット上で面白おかしくネタになるような表現もある。だから実は「おどりゃクソ森」を笑い飛ばすことと図書館の閉架処理は通底した問題なのだ。またもっとも悪辣な表現をあえてするなら「反日的」という評価を下されることもある。でも、でもだ。中沢が漫画を描いた時代、戦後リベラルの時代がそういう空気をふんだんに含んでいたのだ。

 

時代は下って21世紀。こうのの戦略的かつ非常に丁寧な描写によって(細かく書けなかったけど、ちょっとの仕草が雄弁な価値を持つシーンが数多くある)、原子爆弾の悲惨さを私たちは知ることができる。そこでは、今風の、セカイとのリンクや百合百合した感じが含まれる。

 

 

はだしのゲン』を読むときは、ぜひこうの史代作品も読んでほしい。両者の違い、すなわち時代の違いは、「”現代の私たち”が発想する『はだしのゲン』への評価」に隠然とした影響を与えるはずだ。(おわり)

 

補遺 すみさんについて

家族で唯一生き残った妹のすみさんを例に挙げよう。すみさんは母を探して入市被爆し、腕に斑点が出始める。弱っているすみさんを姉のすずさんが訪れる場面がある。原爆症の描写はここで描かれるが、なんとこれ以降すみさんは登場しないのだ。夫婦の会話から最終回時点で生きていることはわかるが、どうなったのかはわからない。原爆症が出ても快復する人もいたし、亡くなってしまった人もいた。重要なのは、ここではそのどちらも描かれない点だ。若くして亡くなっていった人のエピソード、生き残って語り部となった人のエピソード。どちらも残されているし、フィクションでも描かれていよう。この漫画でもそうした内容を描いてもよさそうなものだ。しかし、である。描かれない。もし中沢だったらどうだっただろうか?勝手な想像だが、どんな結末にしろ、すみさんを最後まで描き切るのではないだろうか。